TOKYO CURIOSITY

CURATOR STORY

Robert Frank
Rencontre (出逢い)
〈前編〉

2019.11.15

“We will see what will happen to us…”
この言葉で始まったフランクさんとの出会い、その会話はいつも率直で、端的。余計なことが一切ない、本当のことだけが詰まった会話でした。

彼と初めて会ったのは南フランスのニーム郊外の小さな村に一軒しかないカフェ兼ホテル“Café de la Place”、フランクさんがワークショップのために滞在しているという、そのカフェに着いたのは、夜の帳が町の広場を包み始めた頃でした。
パリで手に入れた案内パンフレットでは、ニーム中心部の泉のある大通り(Nimes-Esplanade Charles De Gaulle-fontana)で19:00に迎えのバスが来るとのことだったのに、予定時刻から一時間が過ぎてもバスらしき乗り物はいっこうに現れず、急いでホテルに戻ってタクシーを呼び、その夜開催予定のロバート・フランク映画上映会会場に駆けつけました。
ドキドキしながらカフェに足を踏み入れた私を、店の客たちは見慣れぬよそ者を珍しそうに、同時に“何故、アジア人がこんな時間に自分たちの場所に紛れ込んできたのか?”と怪訝な顔で眺めるばかり。ただほどなく映画は定刻通り始まり、私は暗闇の中の観客のひとりとしての居場所を得ることができました。『Candy Mountain』、『Pull my Daisy』そして『Conversation in Vermont』、3本の映画が終わるころ、背後で誰かが拍手をしたので振り返ると、そこにフランクさんがいました。グリーンのチェックのシャツにデニムのパンツ、写真で見たことのあるフランクさんその人でした。タングステンの黄色い光のカフェ、彼の周りにはとりわけ柔らかな空気が流れているように見えました。 ボロボロになった『The American』にサインを、そして握手を求める人々に独特のリズム感を保ち、穏やかな表情で応じるフランクさんの姿を追っていた私。その時、私の目と彼の目とが会い、「?」という問いかけをしたように感じたので、手招きで「話がある」と声を出さずに口を動かすと、大きく頷き、ゆっくりと人を掻き分けて私の前にやってきたのです。
「僕に何か用事?」
「ここでやっているようなワークショップを日本でやって欲しいんです」
「ここで話すには、場所が正しくない。三日後にワークショップが終わったら、パリに戻るから僕から君に連絡する。電話番号を教えて」 カウンターにあったビールのコースターの裏に電話番号を書いて手渡すと、
「それじゃ、パリでまた」
そう言って、人垣の中に戻って行きました。
そしてその週末、本当に電話のベルが鳴ったのです。

「今、サン・ジェルマン・デプレのホテルに着いた。ホテルのレセプションで待っている」

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Rencontre (であい)
〈後編〉

2019.11.15

Rue Saint-Benoit通りの小さなホテルに定刻に着くと、ホテルの入り口の狭い階段にフランクさんとジューンさん(奥様のJune Leaf)が立っていました。

今、こうして思い返してみると、フランクさんは待ち合わせの建物を出て、通りで私を待っていてくれたことがしばしばでした。
New YorkのBleecker Streetの自宅を訪ねた時もドアの鍵の具合が悪いからと言って、自宅から持ち出した木箱にちょこんと座っていたし、パリのスイスセンターでの待ち合わせの時もそう、部屋の中より通りにいることが好きだったのでしょう。

「時間通りだ。日本人との待ち合わせは気持ちがいい。まずはお茶をしながら君の話を聞こう」
3人並んで狭い歩道をサン=ジェルマン大通りに面したカフェ・フロールまで。通り沿いの角席に居心地よく座り、ギャルソンにそれぞれに飲み物を注文すると早速、フランクさんから質問
「映画は三本全てを見た?」
「はい。」
「どうだった?」
「ごめんなさい。フランクさんが映画を撮っていることを知らなかったので。ただ、映画というより一枚の写真をずっと見続けている時に感じる酩酊感が残りました。」 「写真も映画も、“Intuition(直感)”と“Obsession (脅迫観念・妄想)”が生み出すものだと僕は思っている。なるほど“intoxicated”か…。さて、今日は君の要件を聞くことが目的だったね。」
そこでやっと当時、プロジェクト・コーディネートを担当していた『写真新世紀』の目的、趣旨、現状を説明し、ゲスト審査員としての来日をお願いしました。しばらく黙って聞いていたフランクさん、彼が口にした提案は私にとって、予想外のそれでした。
「そのコンテストもワークショプも君が中心で主体としてやっているなら、この場で“Yes”と即答できる。ただ、僕は大きな企業や組織との仕事はしない主義なんだ。だからこの時点での答えは“No”だ。」
そう言うとフランクさんは視線を移し、しばらく昼下がりのサン=ジェルマン・デ・プレの道ゆく人の姿を追っていました。
「僕に提案がある。まず、僕たちは“友達”になろう。お互いに手紙を書いたり、場合によってはこうして時々訪ね合うのはどうだろう?そしてその結果、“何かが起こるか?”見届けないか」

“We will see what will happen to us…”

こうして私とフランクはその後、東京、横浜、パリ、エッセン、ニューヨーク、ワシントンDC、さまざまな場所で、実に多様な時間を過ごすことになるのです。

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Workshop at TOKYO, 1994
Just do it now! If not, you never do.
〈前編〉

2019.11.26

一年余りの文通やパリ来訪の度に、共に時間を過ごすことで、私はフランクさんの“ともだち”として受け入れられ、1994年、『写真新世紀』のゲスト審査員としてのフランクさんの来日が遂に実現します。

一週間の東京滞在の日程は審査会、映画の上映会と荒木経惟さんとのトークセッション、そしてワークショップの3本立て。どの瞬間も気づきと示唆に溢れた時間でしたが、とりわけ最後のプログラムであるワークショップは、“写真で伝える”、“写真を読む”というふたつの視点がどのように交差し、機能していくかを目撃する忘れられない時間でした。

ハガキによる一般応募から選ばれた参加者のキャリアはさまざま。定員20名の中には既に作家活動を展開し、フランクさんとも面識があった鈴木理策さんのような写真家もいれば、10代の写真青年も混じっていました。
その後私は、さまざまな写真家たちのワークショップをコーディネイターとして間近で見守ることになるのですが、フランクさんとのそれは最初の経験。その日の私の緊張感は頂点に達していました。
六本木の会場に定刻に集合した参加者、それぞれ自己紹介を終えたところで、フランクさんが最初に口にした言葉は、参加者を前に訳すのに少しばかり勇気を要する内容でした。

「写真で金儲けをしたいと考え、このワークショップに参加しているなら、今すぐここから出て行ってくれ。金儲けの方法なら、成功しているコマーシャルカメラマンのスタジオで注意深く観察しながら仕事をすれば技術は十分学べる。写真を取り囲むビジネスの存在、仕組み、金儲けの手段についてもスマートな奴なら半年もあれば十分体得できる。」

室内にしばし重い沈黙が流れた後、再び何事もなかったかのようにフランクさんのちょっとくぐもった優しい声が響きました。
「さあ、始めよう!」

2日間のワークショップのプログラムは1日目がレクチャーと参加者全員が持参したポートフォリオ・ビューイング。2日目が前夜と午前中に『Intuition(直感)』と『Obsession(脅迫観念)』をテーマに東京を撮影した作品を品評するという三段階での構成。それは、フランクさんが重要視する“世界との向き合う姿勢”、そしてそれを“自分の内面に投影し、どのように共鳴させるか?”にフォーカスを置いた本質的な内容でした。

静かな興奮と緊張感に包まれた1日目のセッションは無事終了。
最後に24枚撮りのフィルムを1本与えられた参加者たちは夕闇の迫る東京の街へ明日の作品レビューに提出するべく飛び出して行きました。

(続く)

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Workshop at TOKYO, 1994
Just do it now! If not, you never do.
〈後編〉

2019.12.9

©︎ Toshiyuki UEDA
フィルムで撮影することとは、限られた回数のシャッターしか切れないことを意味します。デジタルカメラが浸透した現在では想像しにくいかもしれませんが、その場で画像確認することもできないし、操作ミスに気づき再撮すれば、全体の“Narration(写真で語る物語)”に大きく左右する貴重なピースがその分減少。さらに慎重になり過ぎてシャッターを切れずにいると、締め切り時間に間に合わない。時間が刻々と過ぎる中、参加者は張りつめた緊張感を味わったはずです。ただ、その事情は裏方も同じ。ワークショップのクライマックス、最終成果のシーンとなる全員ビューイングに間に合わせるには、即現の役目を引き受けてくれたプロラボのスタッフも同様の時間を味わったと思います。

ワークショップの最後に参加者が撮影した作品をスライドショーで上映し、全員で論評するという実にシンプルなオペレーションでも、“ロバート・フランクが主宰するそれ”となると、現場は本当に大変だったと思います。

ただ、こうした全員の気持ちが結集した“写真と向き合う時間”は、それぞれの関係者にとって忘れられない記憶として刻まれたはずです。
参加者のひとり、市川綾子さんの六本木から東京タワーに向かって歩いた時間に刻まれた24枚のイメージが語りかけた“Narration”は今でも鮮烈な記憶として私の脳裏に焼き付いています。彼女の思考、視界、そして心臓の鼓動までがダイレクトに伝わってきました。
写真には、見る者の心にまっすぐに突き刺さる力があることをこのワークショップで私は身を以て体験しました。

「今、やらなければ何時やるんだ。
 今できないなら、永遠にできやしない。」

内に秘めた感情、思考そして計画、それを実行に移すには大きな勇気と決断が求められます。どんな小さなプロジェクトでも、心からそれを願い、本当に実現したいなら、それを声にし、言葉にまとめ、具体的に行動することの重要性をフランクは私に教えてくれたのです。
そのポイントは4つ。

その1 何のためにそれをするのか?  目的の定義
その2 準備期間とゴールはいつか?  タイムスケジュールの立案
その3 関係者やネットワークは誰か? キャスティングボードの提示
その4 最終責任者は誰か?       主語の存在

これに加えて、“Determination”と“Aspiration”を持ち合わせているか?
フランクを通じて、その後家族のようにさまざまな時間を過ごすことになったロベール・デルピールとサラ・ムーン。ロベールはこの2つを大胆さと繊細さを持って突き進むことをつけ加えました。

何かを実現したいと願う時、最初の一歩においては条件が揃っている訳はない。条件をひとつひとつクリアする“Determination”と“Aspiration”を持っていることがプロジェクトを率いる者の資質だと。

さて、この記念すべきワークショップの最後、フランクさんは参加者にプリントをプレゼンすると突然宣言したのです。

「今日の記念に、僕のプリントを君たちのうち3人にプレゼントしたいと思う」
「20人の参加者のうち、3人だけなんて不公平」と私。
「Life is not fair (人生は不公平なものだ)」とすかさず返すフランク。
「それなら、もらえなかった参加者が諦めがつく方法があるはず」と食い下がる私。
「じゃ、どうすればいいんだ?」
「アミダくじで3人を決めてはどうでしょう?」

通訳する立場を忘れて、まるで親子喧嘩のようなやり取りをする私たちを参加者はびっくりして眺めていましたが事態を説明すると、全員がアミダくじでのプレゼント決定方式に賛成してくれました。
早速大きなアミダ表を全員でつくり、ひとりひとり順番に引いてもらい、ラッキーな3名が決定。
彼らはフランクさんからそれぞれ名前とコメント入りのオリジナルプリントを受け取ることになったのです。

全てのプログラムを終えて会場を後にする時、フランクさんは私の耳元でこう囁きました。
「結局、僕が元々の上げたいと思っていた人があげることができた!
 アミダくじの神さまも僕と同じ考えだったようだ」
そう言ってウィンクしたのです。

その日のフランクさんの極上の笑顔はワークショップの参加者のひとり、植田敏之さんが撮ってくれて今も私のオフィスに飾られています。

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太田菜穂子
キュレーター

大正大学客員教授
NPO東京画 ファウンダー/チーフキュレーター
IWPA (The International Women Photographers Association)審査員/東京代表事務局長

東京生まれ。早稲田大学第一文学部美術史専攻卒業後、ケンブリッジ(UK)で黎明期の写真とケルト文学と妖精学を学ぶ。
アルル国際写真フェスティバルの日本代表事務局、フランス国立図書館(BNF)の日本写真収蔵の特別アドヴァイザーなどを歴任し、ヨーロッパでの日本写真紹介の一翼を担う。現在までに手がけた国内外での展覧会は約150を数える。
近年は異文化交流や日本文化の発信に関わる企画『新日本様式』等のプロジェクトにも参画。
2013年の和食のユネスコ無形文化遺産登録に寄与した『L’art de Rosanjin』、『東京画』では、共にファウンダー・コミッショナーの任を担う。